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ものづくりの達人が「小さな東京」で「大きな課題」を解決するまで

都市。そのスケールはあまりに大きく、かつ複雑だ。例えば私たちは、東京という都市のすべてを、自分の目で一瞥することができない。まだ見ぬ未来の東京のイメージを、多くの人と共有することもまた困難だ。

しかし、これらの課題を解決する方法があった。これから出来上がる未来の建築物を反映させた、東京を俯瞰する都市模型をつくってしまうのだ。

プラモデル、レゴ、建築模型。河合隆平さんは、幼少期から「もの」をつくることが好きだった。今では、見る人をあっと驚かせる「もの」をつくり、社内外の様々な課題を解決するスペシャリスト。そんな河合さんのものづくりへの原動力とは。

大きくてカッコイイものをつくることが「仕事」?

幼いころを振り返ると、毎日なにかをつくっていたことが思い出されます。レゴ、プラモデル、木工の船など。なぜそんなに熱中していたのかは分かりませんが、土木技師の父の影響を受けたのかもしれないですね。父のつくったトンネルやジャンクションを見て、幼いながらに「仕事って、こういうスケールの大きなものをつくることなんだろう」となんとなく感じていました。

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建築を軸にものづくりに没頭した学生時代

そのぼんやりとした思いを抱いたまま、多摩美術大学の環境デザイン学科に進学しました。スケールの大きなランドスケープデザインや造園などを学んでみたかったんです。入学して色々と学ぶ中で次第に建築分野に興味が湧いてきて、3年生からは建築を専攻しましたが、建築を軸にランドスケープデザインやインテリアデザインも学ぶなど、様々な領域を横断するカリキュラムはとても充実していました。

印象的だったのは建築家の伊東豊雄先生の特別授業。彼の代表作である「せんだいメディアテーク」の隣地にアネックス棟を想定して計画するという、抽象的で制約の少ない課題が出されました。「せんだいメディアテーク」本館は対面のコミュニケーションを重視している施設だったので、私はARやVRなどの情報技術を使った、対面でない体験を重視するアネックス棟をつくるというアイデアを提案しました。

アナログでもデジタルでも、コミュニケーションの本質は変わらないという広い視点での発想は、建築を中心に多様な領域を学ぶことができたからこそ生まれたものでした。

建築をデザインするよりも、模型をつくることが好きだった

4年生になってからは、卒業制作に明け暮れました。伊東先生の課題での経験から、建築そのものよりも、人が驚くようなギミックを持つ空間に興味を持っていた。当時、建物の取り壊しや建替え、改装、改修といった行為の建築的ロスや環境負荷に無駄を感じていた為「キレイに現れて、キレイに消える」建築というテーマで海運コンテナを使い可変性があり、再利用が可能な展示空間を設計しました。

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このアイデアをプレゼンテーションするために模型を作りこんでいたのですが、あるとき教授から「君は模型を作りこむのに時間をかけすぎている」と指導を受けたことがあったんです。模型をつくる作業は、プラモデルを組み立てたり、レゴでなにかをつくることに似ていて、無意識のうちに没頭してしまっていたんでしょうね(笑)

とくに、スケールの大きな模型をつくることには熱中しました。単純ですけど、大きなものってそれだけで人に驚きを与えるんです。色々な国のスケールの大きな駅や空港などの公共建築を見て回ったとき、興奮したし、純粋に驚いた。こんなに大きなものを人が作っているなんて、と。

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フィールドワークで街の組成を観察し、模型に落とす

模型作りが高じ、しばらくして森ビルで都市模型をつくるアルバイトをすることになりました。当時から森ビルは、東京を俯瞰する1/1000の都市模型をつくっていた。

都市模型をつくるときには、まずその街を歩いて回って写真を撮る、いわゆるフィールドワークを行います。その街がどんな建物や素材によって成り立っているのか、観察するんです。そしてそれを模型として具現化させる。この作業が、僕にとってはたまらなく面白かった。「小さな東京」を作っていくみたいで。

例えば、名古屋のマンションってレンガ風のファサードがとても多いんです。他の街にはない特徴で、名古屋専用の素材をいくつもつくりました。

このように、実際に観察しないとわからない街の組成を模型に落とし込むことで、一目では捉えきれないスケールの大きなものの特徴を、端的に表現できる。するとそれを見た人が驚く。父のつくったジャンクションやヨーロッパの公共建築に覚えた驚きを、誰かに与えることができる気がしたんです。

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模型からVRへ、必然の流れ

アルバイトとして模型をつくっていましたが、縁あってそのまま森ビルに入社することになりました。時代は、汎用コンピュータの黎明期。デジタルツールを用いて、3Dモデルとして建築を表現できるようになってきた頃でした。

僕が所属しているメディア企画部のミッションは、都市を見える化して、都市に関わる人々のコミュニケーションを手助けすること。そのための手段として、模型に加えてVRのようなデジタルツールが使えるのではないかというのは、当然の発想でした。

さらに言えば、建築や都市のスケール感覚を持った人間がVRをつくることで、より現実味のある空間シミュレーションが可能になる。今思えば、森ビルが挑戦する意義のある領域だったと思います。

一方で模型には、人の手が介在することで現実感をうみだせるという長所があり、VRには物理的に難しい造形を再現性を担保してつくることができるという長所がある。どちらもあくまで都市をプレゼンテーションするためのツールでしかなく、物理的な模型が全てデジタルに置き換わるわけではない。

でも、デジタルツールを用いることでよりスケールの大きな都市の表現が可能になり、見る人に違った驚きを与えることができたのは、面白かったですね。

空間をプレゼンテーションすることで驚きを生み出し、課題を解決する

都市模型やVRをつくり続けていたら、社内外のたくさんの人から「これをつくって欲しい」「こんな表現はできないか」といったご依頼やご相談をいただくようになりました。なるほど、生身の人間一人では見ることができないスケールの大きな空間をプレゼンテーションすることで、解決できる課題がある。この時自分の「人を驚かせたい」という気持ちが、仕事になるという感覚がありました。

例えば2009年には、オリンピック誘致のために東京都からご相談をいただき、都市模型の範囲を4倍に広げました。その結果、都心3区を中心に13区をカバーすることに。当然自分が扱ったスケールのなかでは1番大きいですね(笑)。東京ビッグサイトで招致委員の方にお見せするため、深夜まで制作や施工を重ねました。無事にこのプレゼンテーションが終了したときの達成感は凄まじかったですね。

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人が集まれないという「大きな課題」に立ち向かって

大学で学んでいたデザインの本質は、課題解決。期限や予算など、様々な制約の下でいかに課題を解決するか。そうやって考える癖はついていたんです。人を驚かせるようなものをつくって、かつその人の課題を解決することが、僕のやりたい「仕事」なんだと、都市模型やVRの仕事を通して改めて感じました。父のつくったトンネルやジャンクションも、幼い僕を驚かせただけでなく、きっとどこかの誰かの課題を解決したはずです。

コロナ禍のいま、世界中が「人が集まれない」という大きな課題に直面しています。リアルな場所である都市は、今まで以上に付加価値を提供する必要がある。

この「大きな課題」を一朝一夕に解決することは当たり前に難しい。それでも、学生の頃、教授に指摘されるほど没頭して模型をつくっていたように。街を歩いて都市模型をつくっていたように。「もの」をつくることのおもしろさを追及していくことで、いつかとんでもない課題を解決することに繋がるんじゃないか。そんな淡い期待を抱きながら、今日も新たな「もの」づくりに励んでいます。

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河合 隆平|Ryuhei Kawai
多摩美術大学 環境デザイン学科、住宅設計事務所、森ビルでの都市模型製作のアルバイトを経て、2009年入社。現在はメディア企画部にて都市づくりのコミュニケーションツールの開発に携わる。趣味はレゴを使ったSFメカ造型。