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構造設計の夜明けから。地震大国・日本で、高層建築と向き合い続けた40年

高層・超高層ビルが建ち並ぶ、現代の日本。その建物の土台や骨組みを設計し安全を実現していくのが、「構造設計」の仕事です。
 
今回お話を伺う土橋徹さんは、森ビルに構造設計の専門部隊が創設された当初から、一貫してこの仕事に取り組んできました。「経済性も考えながら、どこまで安全な設計にすべきなのか」「どう説明したら、このビルが安全であることを理解してもらえるのか」。専門家と意見を交わし、住民の声に耳を傾けながら、多くのプロジェクトに携わってきた土橋さん。「逃げ込める街」ヒルズの安心・安全を形にしてきた、40年の歩みをお聞きしました。

土橋 徹|Toru Tsuchihashi
1984年森ビル新卒入社。入社2年目に構造設計の部署ができ、立候補。以来38年間構造設計を担当し、森ビルの構造設計の基盤を作ってきた。初めて担当した「巴町アネックス2号館」以降、森ビルが手がけた全ての物件の構造設計に携わっている。

アートにも構造設計の知識を。六本木ヒルズにたたずむ《ママン》の秘密

六本木ヒルズの広場にある、パブリックアート作品《ママン》を知っていますか? 今にも動き出しそうな、あの巨大な蜘蛛の彫刻です。
 
それが実は本当に、ほんの少しだけ、動くことがあったんですーー。

《ママン》ルイーズ・ブルジョワ 2002年(1999年)/ブロンズ、ステンレス、大理石
9.27 x 8.91 x 10.23(h)m。六本木ヒルズ 森タワーに接続する「66プラザ」に設置されている

六本木ヒルズの開業準備を進めていた頃、パブリックアートの担当者から「高さ10mのアート作品を設置したい。構造設計として、安全面でアドバイスをもらえないか?」と相談を受けました。《ママン》は世界中の様々な国に設置されていますが、地震が多い地域で設置されるのは今回が初めてのこと。他国では地面に突き刺す形で設置されていますが、10mの構造物が大きく揺れれば倒壊の可能性があり大変危険です。そこで、作品を制作した米国のエンジニアに相談したところ、「置くだけにしたらどう?」という面白いアイデアが返ってきたんです。
 
「置くだけ」というのは非常に原始的な免震構造であり、地面が揺れた時に踏ん張るのではなく、スライドできるようにすることで、作品にかかる力を受け流すことができます。そこで、蜘蛛の足先に“ぽっくり”のようなものを履かせ、接地部分の周辺の石だけを滑りやすいように磨いて置くことにしたんです。

作品は無事に設置することができましたが、驚いたのはそこからでした。担当者から「《ママン》の脚が動いているようなんです」と言われて。「《ママン》が生きている…?」とギョッとしました。実際に計測してみると、確かに外側に向かって動いている。どうやら胴体の重さを受けて、イカが泳ぐ時みたいにじわじわと脚が広がっていったようなんですね。それならば、ある一定のところまで行けば安定するはず。実際に計測を続けていくと、脚の広がりは収束したことがわかりました。「構造設計」というと、建物の設計をイメージすると思いますが、アートについて考えることもあるんです。

大地震が起きても使い続けられる建物を。阪神・淡路大震災で世の中の意識が変わった

建築を学んでいた学生時代、意匠ではなく構造設計を専攻したのは、技術さえ身に着けてしまえば日本中どこでもエンジニアとして仕事ができていいなと思ったから。元々、何を選ぶにも機能主義なんです。
 
就職先に森ビルを選んだのは、建設中のアークヒルズを見て「民間の企業であんなに大きな開発ができるんだ」と惹きつけられたからです。当時構造設計の部隊はありませんでしたが、「今後は意匠設計だけでなく、構造設計も社内でやろうしている」という気運があり、入社を決めました。
 
転機は、意外とすぐに訪れました。入社2年目に構造設計部が創設されたんです。外部からヘッドハンティングされて来たベテランと社内の先輩、そして僕の3人が、1期生としてゼロからスタートしました。当時は計算の多くを手で行い、図面も手書きで引いて。初めてのプロジェクトは、9階建てのビルでした。5年目には鹿島建設に出向し、ゼネコンの立ち位置から高層ビルの振動解析や合理的な設計の進め方も学びました。その後も今に至るまで、40年近く構造設計に向き合ってきたことになります。

入社10年目の1995年、阪神・淡路大震災が起きました。僕も現地まで足を運び、自分の目でその惨状を目の当たりにして。ただ呆然と、崩壊した建物を見つめていました。建物がこんなふうに壊れてしまうことを、想像していなかったんです。
 
「地震が起きたとき、自分の設計した建物が最後まで残ったら恥だ」。それが当時の日本の通例でした。建築基準法で定められている安全上のルールがあるのだから、そのルールをギリギリ守りながらコストを抑えるのが構造設計者のテクニックだ、とも習いました。
 
ですがあの大震災以降、そう言う人はいなくなりました。「ああいう地震が起きても、使い続けられる建物でないとダメだ」。世の中の意識が大きく変わると同時に「どこまで安全な設計をするのか」、建物のオーナーに判断が求められるようになったんです。

兵庫県神戸市で。比較的建物の倒壊が少ないエリアでしたが、背後のビルの窓ガラスが割れてしまっているのが分かります

外部の有識者とも議論を尽くし、超高層ビルの構造設計を築き上げていった

1995年当時の森ビルは、六本木ヒルズの設計に着手する頃でした。免震や制振といった、建物の揺れを抑える技術は出てきたものの、まだまだ採用は進んでいなかった時代です。自分たちだけでは少ない知識の中でしか考えられない。設計事務所、ゼネコン、世界の状況を知る大学の先生方など、外部のメンバーにも相談し議論を尽くしながら、超高層ビルの構造の基盤をつくっていきました。

六本木ヒルズ 森タワーに採用されているオイルダンパー。「内蔵のセンサーが微小な揺れも感知して、素早くオイルの流れを制御する仕組みで、大地震時の揺れだけでなく、中小規模の地震や風による揺れも低減させることができます。全部で356台設置されています」

同時に、黒子のような立ち位置だった構造設計が前に押し出されるようになりました。「この建物はどれだけ安全か」「地震が起きたときの、揺れや被害想定はどのくらいか」。ビルのオーナーも、利用者も、建物の安全に対する説明を求めるようになったんです。
 
森ビルの再開発は、建てて終わり、マンションを売って終わり、ではありません。その場所に住む住民を1軒1軒まわり、開発の意義を理解してもらい、多くの人の同意の下みんなでひとつの街をつくり、共に育てていきます。つまり、ひとりひとりに理解し参画してもらわないと、再開発を進めることができない訳です。

「1981年以降、建物は新耐震基準で建てられるようになり、阪神・淡路大震災でも新耐震の建物はほとんど倒壊しませんでした。ですが日本には、それより前に建てられた『被害が起きる可能性がある建物』がたくさん残っているんです。森ビルの再開発は、1軒1軒、古い建物の所有者に『一緒に安全な街にしていきましょうよ』と働きかけ、今後も街で暮らしや仕事が続けられるようにサポートしながら範囲を広げていきます。だから、20年、30年とものすごく時間がかかるわけで。例えるなら農耕民族型の開発スタイルなんですよね」

構造設計者が説明をする機会も多くなり、伝える技術も磨かれたと思います。構造の話を正確に表現しようとするとどんどん難しくなってしまう。一方で専門用語をかみ砕こうとすると、微妙に不正確になっていきます。それを嫌う設計者やエンジニアもいるのですが、相手に理解してもらう為には相手に伝わる言葉で話さないといけない。「柱と梁は靭性(じんせい)が大事です」ではなく、「柱と梁は、粘り強さのある素材を使います」と言い換える。なぜ伝える必要があるのか、と考えると、街や都市はみんなのものだから。公共性が高いものだから、街をつくる僕たちは街を使う人に伝える責任があると考えてきました。
 
日本は地震大国です。例えば外資系のテナントも、地震が起きる可能性のある場所にオフィスを置くのは躊躇するもの。だからこそ、こういう技術を使ったこういう建物だから安心だと説明し、データを示し、理解してもらえなければ、東京、日本を選んでもらうことはできません。
 
日本では、地震が起きた際の建物の揺れ方のデータが公表されることはあまりありません。影響を公にして建物の評価が下がることを、所有者が嫌うからです。その中で森ビルは、そういったデータを専門家や研究機関に開示してきました。評価を気にするよりも、さらなる日本の震災対策や技術の発展を第一に考える。森ビルがその姿勢を貫いてきたのは「失敗から学ぶことも多いから、情報は出していこう」とする意識が社内にあったからだと思います。

地震大国・日本の為にできること。街づくりで得た知見を、今度は社会に還元したい

自然現象が相手なので、「これで本当に安全なのか」という自身への問いは常にあります。『減災』という言葉がありますが、『災害を減らすためにここまでやっておけば大丈夫』という100点満点の正解はないんです。自分のテリトリーはここまで、としてしまうと、必ずどこかに隙間が出来る。関わるメンバーの専門性を尊敬し任せながら、けれど互いに「こういう面はどうだろう?」と補い合えることが大事だと考えてきました。
 
40年近いキャリアを振り返ると、最初は低層ビルから始まり、高層、超高層と、まだ世の中に規定されていなかった構造設計の「安心・安全」と向き合い、手を動かし続けてきました。その中で、社内の様々な部署はもちろん、ゼネコン、設計事務所、メーカー、コンサル会社、研究者、省庁、そして街に住み働く人たちと、アイデアを出し合い、それを伝え、共に街をつくってきたという実感があります。
 
現在は、免震や制振装置を試験できる国内初の第三者試験施設の運用団体に森ビルとして参画し、運営に携わっています。それも「街づくりで得た知見を、今度は国全体に役立てたい」という思いがあったから。これからは、若者の悩みを聞いたりちょっとしたアドバイスをしたりしながら、社会に還元していきたいですね。


土橋さんの「未来を創る必須アイテム」

製図用のペン
入社当初、製図は手描きしていた名残で、今も製図用のシャープペンシルが手放せません。グリップ部分がストレートになっていることで、まっすぐな線が描きやすいんですよね。

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